負け犬の読書灯 〜本はいい。無秩序にご紹介〜

今日か明日、書店に行きたくなる書評

気球への乗船、あるいは男の名前の忘却【泥沼と気球2】

わたしは気球に乗ると決めた。あの男にはあなた以外の人と気球に乗るからと告げた。浜風のまだ暖かい夕暮れだった。誰かのクルーザーが波に揺られて上に下の動いていた。

あの男は動揺していた。早口で少しだけ何か言ったはず。そして徒歩で立ち去った。一度振り返り、小さく手を振って、そしてねずみ色の闇に消えた。ああ、これでせいせいした。

わたしの夢をあの男は叶えられない。地球上のどこかに存在し続けるのはあの男の権利だ。好きにすればよい。

わたしは彼と気球に乗った。彼と相談して、バルーンが紅白のストライプのにした。秋空は高く、雲もない。こんなにいい日和はこれまであったはずだけれど、今日ほどではなかったはず。高度が上がると、恐怖と覚悟。そんな世界に踏み込めたしあわせが身体を巡る。彼とならきっと夢が叶う。少なくともその可能性がある。夢。ああ本当に、本当に良かった。気球に乗った自分が誇らしい。

澄んだ風が吹く。気球の下に見える街と山。この辺りは沼地が多いらしい。あれがそうだろうか。わからないけど、どうでもいい。汚い沼地に用事はない。

あの男、何て名前だったっけ。(鉄)

泥沼と気球、あるいは大切な人との別れ【泥沼と気球1】

山の中に汚く臭い泥沼がある。俺はその泥沼に首までつかる。何とか這い上がらなければ沈み、重い泥が肺に流入する。死ぬ。はあはあを息を切らして這い上がろうとする。木の根や枝にしがみつく。泥と汗で滑る。

 

彼方から、気球がこちらの方向に向かってくる。バルーンは赤と白のストライプ。気球には2人を含む数人が乗っているようだが、姿は見えない。気球からこちらの姿も見えない。気球から泥沼は単なる模様に、俺の姿は蟻の如く映るはずだが、そもそも誰もそんなものを見下ろしはしない。気球の乗客の眼前には素敵な風景が広がる。薄汚い沼や蟻など視野に入れる必要はない。存在すら知らないのだ。

 

俺は死の恐怖と体力の消耗におののき、沼から這い上がろうとする。気球の姿が目に入るが、気にする余裕はない。泥が重い。やがて胸が泥から出る。腕に力をこめる。何とか這い上がる。

 

沼の傍にあおむけになり、空を眺める。秋晴れの晴天に雲はない。気球が頭上の上空を横切る。ゆったりと高度を上げながら気球は進んでいく。泥まみれの身体からドブの臭い。立ち上がり、ゆっくりと歩く。近くに清らな川が流れている。身を沈め、衣服と身体の泥を洗い流す。誰もいない。鳥の高い鳴き声が遠く聞こえる。静かな世界。水の音。

 

川から上がる。ほとりの岩に腰をおろし、キャスターに火をつける。ゆっくり吸って、ゆっくり吐く。バニラの甘い香りが広がる。気球はもう遠く、はるか遠く、点に見える。ストライプの色さえ夕日に溶けて判別できない。夕暮れの空に気球は吸い込まれる。2本目のキャスターを吸いながら、遠い気球を眺める。(鉄)

【本の紹介】苦しみの中から立ち上がれ ―アントニオ猪木「闘魂」語録―

巻末の「完全年表 アントニオ猪木 過激なる77年の軌跡」が過激すぎる。1943年横浜で生まれ、13歳でブラジル移住。そのサンパウロ力道山にスカウトされ、プロレス界のスター選手となる。28歳で新日本プロレス旗揚げ。事業にともなう多額の借金と返済。46歳で参議院議員に当選。4度の結婚。リング外で襲撃を受けたこと2回。毒ヘビに咬まれて意識不明になったこと1回。

この程度の要約にして十分過激である。「元気ですか!」と叫ぶ笑顔の裏には、私のような凡人には一生かかってもできない経験があった。本書は、アントニオ猪木氏の著作やインタビュー記事をもとに108の「闘魂語録」を編んだ作品である。単にフレーズの抜き書きではなく、前後の文脈や発言の背景も記載されていて理解の助けになる。

アントニオ猪木氏は、他人が自分の思い通りに動いてくれることを究極的には期待していない。発言には一種の諦観が漂う。本書の編集方針というのもあるからにわかに断定はできないが、108コメントを精読した印象であるからあながち大外れでもないだろう。「マネされたらまた新しい技をあみだせばいい」、「騙した側には騙した側なりの人生がある」という言葉には、そんな深い諦観、あるいは慈悲を感じる。

著名人の名言集は多数あるが、本書はアントニオ猪木という人の夢、現実、諦めといった要素をさらけだすことで読者自身の人生観に迫る名作である。書中から自分の心に刺さるフレーズを探していただきたい。ちなみに私は「闘魂語録75 負けなければ、人間は強くなれない」が好きである。何者かになりたくて、結局何者にもなれなかった。その敗戦に意味があるというなら信じてみたい。

なお、猪木氏は現在闘病中とのこと。どうかじっくりと快復され、いつか109番目以降の闘魂語録を私達に聞かせてほしい。(鉄)

(2022年6月/宝島社/253頁/880円)

 

追記(2022.10.01)

本日、アントニオ猪木氏の逝去が報じられた。大人物がひとり、天国に旅立った。アントニオ猪木公式Twitterには、本年9/21に撮影された氏のインタビュー動画が投稿されている。ベッドに横たわり所々発話も難しい体調にも関わらず終始笑顔の氏は、元気になったら地球の環境問題に取り組みたい、どうだーっと元気な声を出せる日が「もうそこまで来ています」と語っている。この姿を前にすると強さとか希望とかいう言葉すら安っぽく響く。ご冥福をお祈りします。あなたは小学生の頃から私のヒーローでした。そしてこれからもです。

 

 

【本の紹介】『北極探検隊の謎を追って 人類で初めて気球で北極点を目指した探検隊はなぜ生還できなかったのか』(著:ベア・ウースマ、訳:ヘレンハルメ美穂)

探検家たちが人類初の北極点到達を競った19世紀末。気球で北極点を目指した3人の男たちがいた。彼らアンドレー北極探検隊は、母国スウェーデン北端から水素気球で発ち、広大で危険な氷上を進むライバルをしり目に北極点上空を通過し、北米大陸かどこかに着陸する予定だった。

 

ところが、42歳、27歳、24歳の3人を乗せた気球は出発直後から操縦不能となる。3日弱上空を漂った彼らは、北極点を見ることなく氷上に不時着。通信手段に伝書鳩(!)しか持たない3人は文明社会と断絶されてしまう。その遭難から33年後の1930年、北極海無人島クヴィト島で彼らのキャンプ跡と白骨化した遺体が発見される。遺された日記からは差し迫った死の危険は感じられない。十分な食料や医薬品も残されたまま。彼らの足取りや死に至った経緯は謎に包まれていたことから、後世に様々な推測を呼んだ。

 

著者はこの遭難事件に強い関心を抱き、その真相、特に3人が死に至った原因を究明しようとする。医師でもある彼女は科学と論理を駆使して遺品や当時の記録をもとに旧来の俗説を排除し、結論に一手一手迫る。また、どうしても現場を見ないと気が済まないタイプのようである著者は、あるときは流氷浮かぶ北極圏へ赴き、またあるときは博物館と交渉して遺留品調査のために車を飛ばし、そして遂に探検隊員が絶命した最後のキャンプ地に踏み込む。

 

本書は、探検隊やその周辺人物に起こったことや、自身の調査の足取りという事実を調べ上げて記述する。意図的に予断を排除しようとしているようにも見える。著者自身、本書冒頭でこう宣言している。

この本に記されていることは、すべて真実だ。全部、ほんとうにあったこと。

ただし、このページの左隅にこっそりこう書いてある。

267ページから270ページまでを除いては。

 

本書の終着点となるこの4ページに、アンドレー隊3人の死に関する著者の推理が記されている。それは事実と論理を積み上げた末での帰結であるだけに痛ましく、悲しい。読者はここで120年の時を隔てながらアンドレー隊を傍で見つめていた自分に気づく。そのように惹き込むものが彼らの探検と著者の筆にはある。

 

遭難したアンドレー隊3人の行程は過酷なものだった。彼らは自分たちの冒険を後悔しただろうか?気球という気象条件に大きな影響を受ける乗り物で、飛行実験することもなく北極点を狙うとは無謀にも思える。しかし勝算あればこそ彼らは飛び立った。着陸先で歓待されることを想定し彼らは正装まで準備し、それが最終キャンプ地で発見されている。成功でなければ失敗だとすると、彼らのトライアルは失敗に終わった。ホッキョクグマを撃って食糧にしながら重いそりを押しつつ進行した彼らの冒険を、失敗だと断じることが私にはできない。

 

なお、この遭難事件にはサブストーリーがある。最年少の隊員ニルスと、婚約者アンナの物語である。ニルスがアンナに宛てたメッセージが日記に多数残されている。消息不明の婚約者を思いつつアンナは別の男性と結婚、やがて天寿をまっとうする。彼女の遺言が成就するとき、遭難から半世紀を経てニルスとアンナの人生の物語がつながる。

 

柔らかい文体で読みやすい翻訳。加えて、アンドレー隊3人の姿や遺された探検中の風景を撮った写真、キャンプ地にあった残留物の写真などが多数掲載され、それだけでも興味深い。本編約280頁の作品にして様々な感情に読者を誘う、まさに快著。(鉄)

青土社、2021年、2,200円)

 

靴下の穴と長時間労働

今週のお題「お気に入りの靴下」

社会に出て、頻繁に靴下に穴が開いた時期があった。だいたいつま先部分からやられるのだが、気に入った靴下も、丈夫さを謳う商品も程なく破れた。あんまり次々に傷むもので、穴の開いた靴下を履くことが常態化した。居酒屋などで靴を脱ぐ場面では恥ずかしいので、つま先部分をちょっと引っ張って、足の親指の下に挟んで隠すこともしばしばあった。情けない時期であった。

オフィスワークでここまで急速に靴下が劣化する理由を、当時は思いつかなかった。振り返ってひとつ思い当たるのは、長時間労働をしていたことだ。働き方改革という言葉も過労死等防止対策推進法もなかった20代半ばから30代にかけての時期、時間外労働が現在の過労死基準の2倍かそれ以上の月はしょっちゅうだった。幸いにして生き延びた。徹夜明けの寒い朝、会社の洗面台で頭を洗い、外に出てたばこを吸い、出勤する社員を眺めながら、俺はこれだけ仕事しているんだ、という高揚感すらあった。

そんな生活の中、長時間にわたり革靴の中の熱や湿気に当てられたせいで、靴下は次々とだめになったのではないか。靴下が破れるの足から出る毒素が原因だとするネット記事があった。毒素を発していたかどうかは知らないが、どっちにしろ私の革靴の中は繊維に長時間悪影響を及ぼす環境ではあった。

今は立場も変わり、時代も変わり、あの当時のような残業をすることも、靴下に穴が開くことも減った。しかし、当時靴下の繊維に補修しようのない劣化が生じたように、自分の身体もどこか不可逆的に傷んでいるのだろう。みなさんの靴下は大丈夫ですか。頻繁に傷んでいるようなら、いろいろご事情もおありかと思いますが、どうか、どうかご無理のないように。(鉄)

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インドネシア・1960年代の大虐殺事件に迫る力作(倉沢愛子著『インドネシア大虐殺』~2つのクーデターと史上最大級の惨劇~)

物々しいタイトルだが,誇張ではない。1960年代半ばにインドネシアで発生した2度のクーデターの間,反共産主義者に虐殺された人は50万人とも200万人ともいわれる。気の遠くなるような数字だし,そもそも大きな数値の幅も不気味である。

最初のクーデター発生は1965年9月30日から翌日未明。陸軍の一部が軍将校6人とその家族の合計7名を殺害。これを鎮圧した陸軍が事件にインドネシア共産党PKI。ペーカーイーと発音する)の関与を断定したことから,至るところでPKI関係者や関係者と疑われた人々への逮捕,虐殺が続いた。手を下した人の多くは民間人だったという。

当時の徹底した情報統制と事件をタブーとする風潮の中でよく知られることのなかったこの事件。著者のインドネシア社会史専門家,倉沢愛子氏は,大量の政府文書と先行研究を渉猟,関連諸説も丁寧に分析しながら真相に迫っていく。

スカルノ初代大統領というカリスマによる「指導される民主主義」は政権の左傾化と西側諸国との対立を招いた。本事件後、スカルノ大統領は権限喪失、陸軍軍人スハルト(第2代大統領)による権限掌握が完成する。そんな複雑な歴史背景も予備知識なく理解できるよう説明されている。

事件関係者への聞き取り調査を踏まえ,加害者・被害者双方の視点から事件を見る第4章は考えさせられる。62人もの殺害を後悔なく語る男性の話や,弾圧を逃れて南米や欧州に亡命した人の話などの生々しい事例が幾つも紹介されている。多くの人は軍や西側諸国が流した大量のフェイクニュースでヒステリー状態になり,国や家族を守ろうと真剣に思って,虐殺に突き進んだ。虐殺は数年経たず過ぎ去り,その後インドネシアは開発主義に転換、豊かな時代を迎える。その陰で多くの家族は今も破壊されたままである。こういうものを読むと「国にとって国民とは何なのだろう。国民にとって国って何だろう」といういささか青臭い感慨を抱いてしまう。

平易な文章と新書という分量感で読みやすい本書。インドネシアのことよく知らない,という方にもお薦めできる一冊。なお,現在バラエティ番組でご活躍のデヴィ夫人スカルノ初代大統領の第3夫人であり,当時,夫スカルノを守り軍との関係を改善するために奔走されている。最終的にその取り組みは奏功しなかったが,ご奮闘ぶりは本書の随所に登場する。デヴィ夫人を見る目が変わる一冊とも言えるかもしれない。(鉄)

 (中公新書,2020年6月25日発行,820円(税込))

 

※最後に…。コロナの事態後,本を読む気になれない時期が長く続きました。最近やっと気持ちが向くようになりブログも再開しました。時々覗いていただけますと幸いです。

 

廃棄したはずの本に古本屋で再会

今週のお題「激レア体験」

人事異動を期に、自分で買って職場に置いていた売れなさそうな書籍をまとめて処分したことがある。悲しいが、時にはやむを得ない。書き込みをしたりして価値がなさそうなものを紐で縛り、ビルの地下にあるひんやりした集積場に運んだ。

その後1年は過ぎただろうか。仕事帰りの解放感に任せて市内の古本屋に立ち寄った。居並ぶ背表紙を眺めながらぶらぶら歩くのは至福のときである。そのとき、一冊の懐かしい本を見つけた。私のいる業界以外の人の関心はおそらく惹かないだろうマニアックな本である。前の部署のとき買ったよな、異動の時に捨てたっけ。手に取ってひっくり返すと、本の小口から見覚えのあるインデックスシールが突き出していた。そこに書かれた文字は明らかに私の筆跡である。

それは紛れもなく私が廃棄したはずの本だった。

これはドラマで崖から突き落とされた人が最後に現れるシーンに似ている。

「お、お前がどうしてここに。お前は確かあのとき...」

ドラマなら相手が不敵にほほえみ、手短に経緯を説明してくれるが、本は私の手の上で静かにしている。本だけに読み取れ、ということか。

誰かが地下の集積場から持ち出して売ったのか、回収業者経由で流通したのか、そんなところだろう。大胆にも1260円の値札がついていた。人の本で儲けやがってと少し頭に来たが、元は自分が処分したものである。それにしてもそれを再び手にするとは奇遇である。

懐かしさから買おうかとも思ったが、自分が廃棄した本を1260円でもう一回買うのも何か変なので、書架に戻した。

その本はなかなか売れず、何年も同じ場所に刺さっていたが、先月行くとなくなっていた。売れたのか、あるいは今度こそ廃棄されたのか、分からない。本だけにカミのみぞ知るということか(しつこい?)(鉄)