本の山 〜お薦めの本、山積みに〜

今日か明日、書店に行きたくなる書評

悩みを解決するのではなく消去する?エピクテトス先生,どういうことですか?【本の紹介】『奴隷の哲学者エピクテトス 人生の授業』(荻野弘之著,かおり&ゆかり[漫画 ])

生きているといろいろある。ローマ時代の哲学者エピクテトス(西暦50/60年頃~136年頃)の言葉を読むと,約2000年前の人びとにも,他人からの評価に一喜一憂し,邪険に扱われれば心を乱し,仕事や人間関係が思わぬ方向に進めば焦って不安になり,人が成功すれば嫉妬する,など現代の私達と変わらないお悩みがあったことが分かる。

そして一部の人々は,心安らかに生きる知恵を哲学に求めた。本書はエピクテトスの思想のエッセンス集『提要』から選りすぐりの約30か所をもとに,私たち現代人が抱える面倒な悩みごとを落ち着いて考えるためのヒントを見出そうとするものである。なお,エピクテトスは奴隷の両親の家に生まれ,解放後に哲学を講じたという珍しい経歴の人である。

エピクテトスの思想をシンプルに表すのは,このフレーズである。

君ができること,まさにそのことに励めばよい。(p.49)

何だありきたりな…と,どうか思わないで下さい。エピクテトスは,自分の権限でどうにかなる事柄を「権内」,そうでない事柄を「権外」と呼ぶ。「君のできることに励め」には「権外のことは,君にはどうしようもないので,それに権限を持つ他人に任せ,気にしないでおきなさい」という意味もある。自然現象や他人の頭の中はしょせんコントロールできないという諦観がある。

エピクテトスによるこの「権外」の範囲はかなり広い。他人から自分に対する評価や仕打ち全般の他,弾圧による刑罰,病気等の他,人間としての自分の価値に関係ない(と彼が考える)財産や社会的地位もまとめて「権外」扱いである。この点,エピクテトスの信念は相当強固である。例えば彼の講義録である『語録』では,多種多様な事例をくどいほど繰り返し示し,自分でどうにもできないことに一喜一憂することはやめておきなさい,と説いている。さすがにここまで徹底するのは難しいけど,確かに多くの悩みは結局,「権外」のことなんだよなと気づかされる。

この考え方は,悩みや課題の多くを正面から打開するのではなく,もともと解決できる課題じゃないですねと,お悩みリストから消去するものである(著者もこの点を指摘する)。現代の私達のもつドロドロした感情(イライラ,悲しみ,嫉妬,経済問題,健康等)はすべてこの発想で解決・解消できるものではないとは思うが,一方に振り切れた自分の視野をニュートラルな位置の方向に移動させる効果は,少なくともあるのではないかと思っている。少なくとも私にとってはそうである。

なお,彼は権外のことを無視しなさいと言っているだけではなくて,それでも日々心に浮かぶ様々な感情をどう処理していったらいいのか,ということについても説いている。

最後に,私が好きなフレーズを一つ。

出来事が,君の望むように起こることを求めてはならない。むしろ,出来事が起こるように起こることを望みたまえ。そうすれば君は穏やかで幸福な生活を送れるだろう。(p.61)

私はこのフレーズを好むあまり手帳に貼って時々眺めている。

著者(荻野弘之氏)は西洋古代哲学の専門家。エピクテトスの人物像や時代背景をも分かりやすく説明し,心地よい言葉が並ぶだけの自己啓発本とは一線を画している。随所に挿入される見開き2頁ほどのまんがに親しみがわく。(鉄)

『太陽にほえろ!』番組プロデューサーによる貴重な証言。とにかく熱い。【本の紹介】『太陽にほえろ!伝説』(岡田晋吉著・ちくま文庫・2020年2月刊)

太陽にほえろ! 伝説 (ちくま文庫)

太陽にほえろ! 伝説 (ちくま文庫)

太陽にほえろ!』と聞くとあの乾いたテーマ曲が反射的に脳内再生されたあなた、同志と呼ばせていただこう。『太陽にほえろ!』は19727月から198611月までの145か月間、合計718話を世に放った刑事ドラマである。企画から最終回までの全作品を担当した岡田晋吉プロデューサーによる回想録が増補加筆のうえ発行された。制作過程や裏話が詰まった貴重で、熱量の高い記録である。

1970年、岡田氏は日本テレビで長期安定番組の企画を検討、ライバル社TBSの人気番組『キイハンター』等を研究し、バラエティ要素のある集団アクションものがいけると読んだ。これを当時減っていた刑事ドラマとして構成し、視聴者が若い主人公の成長物語をメインに据えて出来上がったのが『太陽…』だ、とのこと。緻密である。ノン・セックスを貫くことで模倣犯を防ぎ、家族で安心して見られる番組とするなど、独自のこだわりもあったという。多くの人に長く受け入れられるものには、やはり熱い思いと、筋の通った思想があるものなのだ。

 マカロニ刑事ことショーケンジーパン刑事こと松田優作などのキャストのほか、脚本家小川英ら番組を支えた人達とのエピソードも充実。岡田氏はじめ関係者が真剣勝負で一作ずつ、しぼりだすように世に送り出してきたことが分かる。ここまでやったから歴史に残り、何の悩みもなくただボーっと番組を見て楽しんでいた当時小学生の私の中にも残っているのだろう。

私は俳優・露口茂が演じた刑事「山さん」が、昔から特に好きだった。各刑事には3分程度のテーマ音楽があるのだが、今でも疲れたときには「山さんのテーマ」を聴いてしまう。露口氏起用の目的は青春刑事モノであるこの番組に、3040代の女性を惹きつけるためだったという。

ややもすると若い人の趣向に合わせ過ぎるこの番組に、大人の鑑賞に耐えうるものを注入してくれたのが彼だった。(p.99

ブラウン管の中(当時はこれ)は眉間に深いしわをつくっていたが、人情味のある刑事だった。あの異様な安定感、安心感。ああいう大人の男になりたかった。

ここまでで紹介し切れなった刑事、俳優らにまつわるエピソードも多数。後半の「ベストエピソード100」には、例えば当時19歳の浅野ゆう子が大胆にもボス(石原裕次郎)に対して「あら、私のほうが股下が長い」と発し石原が驚いた、という小ネタ的エピソードも満載。久しぶりに『太陽にほえろ!』を思い出した方、昭和文化に興味がある方にお薦め。(鉄)

追記:当時、『太陽…』同様に多人数の刑事のチームを描いた作品に『特捜最前線』があった。私には実はそちらのほうがなじみ深い。世間的にはどちらが人気なのかよくわからないが『特捜最前線』を語る書籍のほうが比較的少ないようにも感じる。いずれ探したうえで、ご紹介したい。

この本がインドネシア語学習のスタンダードになる予感(【書評】『ワークブックインドネシア語 第1巻』森山幹弘ら著)

ワークブック インドネシア語 第(1)巻

ワークブック インドネシア語 第(1)巻

人口は世界第4位,歴史上も経済上も日本と関係の深い国インドネシア。しかしインドネシア語語学書は意外と少なく,書店での専有面積も広くはない。「アジア諸外国語」などとひと括りにされることもあり、悲しい。特に文法書が少ない。基本的な文法が比較的シンプルだからか。それとも需要がないからか。いずれにしても,会話の面では日本語にはないRの独特な発音や、「エ」の口で「ウ」と発する母音などを習得する必要があるものの,単語を繋いでいけば何となく通じる寛容さがある。

私はかつて「おはよう」「ありがとう」程度の言葉しか知らない状態でジャワ島へ渡った。現地で会話してくれたすべてのインドネシア人の方々が、私の先生だった。今でも日常的な読み書きにほぼ支障はないのだが、フォーマルな会話・文章作成に限界を感じる。この状況をブレイクスルーするため、本書を頼りに文法を一からやり直してみることにした。

2018年発行の本書、体系的なインドネシア語テキストではおそらく最新の作品である。3分冊、それぞれ100頁前後という抑えた分量の中で、基礎はもちろん,微妙にニュアンスが異なる類似表現まで,微細に解説している。

例えば、動詞punya(プニャ)とada(アダ)の用法について。

Dia punya mobil.(彼は車を持っている。)

Dia ada mobil.(彼には車がある。)

日本語にすると似たような意味合いになるが、punyaのほうは「車を恒久的に所有しているという意味合い」,adaのほうは「一時的にあずかっているという意味合いをふくむ」と解説される(128頁)。このように定型的な文法を超えた微妙な情報が随所に差し込まれている。ある程度インドネシア語ができる方が読まれても「そうそう!」と確認して楽しめる。

インドネシア語の体系書として長く王座に君臨してきたのは『バタオネのインドネシア語講座初級』(めこん、1989年初版)であった。『バタオネ…』に比較して、本書は扱う単語や表現も今風。かつ全体分量が3/4程度というコンパクト感が最後までやり切る励みにもなる(私は『バタオネ…』全389頁を結局通読できなかった)。もっとも、本書には長文はあえて掲載されておらず、かつ演習問題も多くはない。指導者がつく大学等での活用を想定しているのかもしれない。

令和の時代、本書がインドネシア語学習のスタンダードになると私は確信している。インドネシア語の世界にご興味のある方、きっちり学びたい方には、お薦めしたい。(鉄)

(『ワークブックインドネシア語 第1巻』森山幹弘+柏村彰夫+稲垣和也:著、三元社、1,400円+税)

「何ンともしれぬ妖しいときめき」を感じさせる若い日舞の踊り子の話(舟橋聖一著『顔師』)

顔師(かおし)とは、芸者衆や踊り子に化粧をほどこす職業。本作は、顔師の男が日本舞踊の名手お糸さんの思い出を語る短編小説である。昭和32年初出、全集・選集によく収録された作品でもあり、初めて舟橋作品を読む方にお薦め。

私が好きな場面がある。顔師が初めてお糸さんに化粧をするところである。24歳のお糸さんが浴衣の諸肌を脱ぎ、顔師の前に座る。

…わたしは、お糸さんの玉の膚を見たとき、生まれてはじめて、刷毛を持つ手が、微かながら慄えるほど、何ンともしれぬ妖しいときめきがあつたのです。

 先ず、首つきの可愛らしさといつたら、無類と感じました。それから胸。腕のつけね。肩のまる味。二つの乳の隆起。それから下は、見ることを許されません。

 初対面の2人の間にある軽い緊張感とお糸さんの美を、顔師の手の震えと、視線の動きで表すこの表現。男の眼で見ていることで、美しさと艶めかしさを併存させている。

さて、この仕事を機に、顔師はお糸さんのご贔屓になる。夫と死別し障害のある5歳の養次君を女手一つで育てながら、昼夜問わず舞踊に打ち込んでいくお糸さんに「思慕と傾倒」を抱きながら、彼は公演旅行や生活全般を手伝うようになる。

そして事件発生。次期家元に内定したお糸さんは京都公演での大事な新作の振付を任される。しかし肝心の作曲(唄と三味線)の完成が遅れ、振付がつけられない。何とか公演10日前に曲ができたが、京都に前乗りしたお糸さん不在の折、大切なレコードを養次が割ってしまう。終戦直後のこと、一発録音した音で直接溝を切った一点ものだろう。事故直後に現場に来た顔師、これは一大事と京都へ電話。電話口で「……苦しいわ、あたし……」という言葉を残したお糸さんは、旅館から姿を消し行方不明となる。京都に駆け付けた顔師や家元にも手がかりなし。お糸さんはどうなったのか。

夫に先立たれ、養次君の将来を案じながら、日々の苦しさを払いのけるかのように日本舞踊にストイックに打ち込むお糸さん。舞踊界での貫禄がつき、凛として自立したように見えて、危うい雰囲気もある。この際、顔師になってもっと彼女を見ていたい、あるいはいっそ傍で何かの役に立ちたいと思ってしまうのだが、これは約40頁の短編である。結末は早々に訪れる。最後の場面、7月の夜、京都・加茂川沿いの涼風が心地よすぎて、哀しい。(鉄)

「顔師」(舟橋聖一著、昭和326月発行、新潮社、定価250円)を底本とした。

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舟橋聖一(引用:Wikipedia舟橋聖一”より)

1953年の児童書『みんなの世界』に込められた願いとは

みんなの世界 (岩波の子どもの本)

みんなの世界 (岩波の子どもの本)

児童書にしてはやや無機質なタイトルと、落書きスレスレの脱力系イラスト。本書は民主主義のルールを、小学生の日常生活を引き合いに易しくユニークに語り教える。1953(昭和28)年12月発行であることを思うとき、終戦直後の開放的な空気と、新生日本を担う子ども達に期待する制作者の願いが感じられる。原作のマンロ―・リーフ作“Fair Play”がアメリカで刊行された1939年、日本は翼賛体制に向かっていた。その14年後、大人も子どもも本書を手に民主主義を想うことになる。まさに激動である。

お話はまず、他人と共生するためには身勝手な行動はいけないこと、規則や法律といったルールを守らなければならず、法律は公選の代表者が決めるのが最も良い方法だとする。また、自分勝手な行為が見苦しいことを繰り返し説く。

(野球をするとみんなで決めたとき)じぶんかってな「おらが」くんという子が、「ぼくは、野球なんかいやだよ。ひとりでたこをあげるんだ!」といってきかなかったとしたら、みんなは、いったいどうするでしょう?

 「おらが」くん…?「俺(おら)が」の意味か、いやひょっとしたらOlgaか何かの音訳か?気になって原作を調べるとその子の名前はJustme。シンプルにして印象に残る訳出である。

お話の後半では、警察・消防など公益的業務にかかる費用は税金でまかなわれること等が説明される。この部分が割と詳しくて、行政サービスは公平であるべきことや、所得や資産に応じた課税にも触れている。さすが納税者意識が高いアメリカである。

現代の視点からはやや理想主義的だが新鮮な記述もある。例えば、選挙で自分が投票していない候補者が当選した場合について述べる一節。

いったん、投票でそうときまったら、その人たちをみんなでたすけていくようにしなければなりません。

これが、公平な、いちばんいいやりかたです。

 突き詰めれば異なる立場間の論争も否定されそうだが、確かにそういうことなんだろう。しかし余程有事の時以外、あまり見た記憶がない光景である。

原作と突き合わせると、日本での出版に際し、原作に一部手が加えられていることがわかる。マンロー・リーフ氏がどのような思いでこの仕事に臨んだのか私には知る由もないが、きっと戦後日本の復興と民主化を期待してくれていたと信じたい。原作の1ページ目で北米大陸に立っていた少年、翻訳版では日本列島の上にしっかり立っている。(鉄)

(『みんなの世界』文・え:マンロー・リーフ、訳:光吉夏弥、岩波書店195312月初版発行、出版社在庫なし(2020.1月時点))

女性美を兼ね備えた青年内科医が女性関係と人生に悩んだ挙句…(舟橋聖一著『薔薇射たれたり』)

『薔薇(ばら)射(う)たれたり』は昭和211946)年、雑誌『女性』に連載された作品である。恋敵の女性同士が電車で向かい合わせになるというような不自然な偶然がいくつか見られたり、語り手の「私」が途中からいなくなったりと、完成度を問題にしようとすればできるが、そこに拘っては作品の魅力が見えなくなる。本作品は、理屈で割り切れない男女愛、性、男の弱さが、戦時中の世相を背景に舟橋らしい繊細な描写で表現された佳作である。

医学生・志納力哉は女性美を兼備した美青年。女性にモテるが浮いた噂もなく、下品な会話さえ嫌がる堅物である。スキー中に薔子(しょうこ)と衝突しかけて転倒、負傷したことをきっかけに2人は出会う。バブル期の恋愛ドラマみたいですね。さて卒業後の志納は大学の内科医局に職を得、医局部長の娘との結婚まで期待されて順風満帆だが、患者との女性関係を疑う誹謗中傷に耐え兼ね退職、千葉の牧場に隠遁してしまう。薔子は志納を思いつつ、若手映画女優として有名になるが、業界関係者に半ば強引に迫られ妊娠、表舞台から姿を消す。のびのびとスキーをしていた時期は、お互い過ぎてしまったのである。

牧場で落馬して視力障害を負った志納は、献身的なある女性と結婚するが彼にとって気詰まりな生活が続く。やがて軍医として出征する前夜、志納は薔子を訪ね一夜を共にする。ほどなく眼疾が悪化し帰国して療養を始めた志納は、妻との関係を整理しようとしながら薔子との関係を継続。しかし薔子には昔の男がつきまとい、彼女は志納を愛しながらその男から逃げることができない。医師復帰を目指すも眼疾の鎮痛剤への依存状態となり退廃した志納は遂に、薬物とピストルを携えて宿を出る。

美青年ドクターと人気女優だった2人が、気づけば遠くまで流されていった。志納はもともと女性と気安く交際しない(できない)人物と描かれているが、実際には、ときどきに高まる自分や相手の感情の動きに押されると案外弱いところがあり、最終的にはデカダン(退廃)に至っている。

かうしていつも、志納は女との過ちを重ねてきた。気が弱いといえば弱いのであらう。人が良いといえば良いのであらう。必ずしも、自分のための情慾ではない。女を、振り切る強情が足りないのだ。(p.241

 理性を超える感情に突き動かされる男女の健気さと哀しさ。私はこれが、舟橋作品に通ずるテーマの一つだと思っている。舟橋聖一は多筆な作家で、特に40代、50代の頃の作品数はすごいものがある。晩年、視力を失った後も口述筆記で小説を作り続けた。隠された舟橋作品の魅力をこれからも少しずつ記録化していきたい。

いわゆるネタバレになる書評は書かないことにしているが、この作品が入手困難であることから少し申し上げると、薔子の名はタイトルにもある「薔薇」に由来している。そしてタイトルによると、薔薇は撃たれる。(鉄)

(『薔薇射たれたり』舟橋聖一著、昭和22年12月発行・同23年5月再版発行、矢貴書店、定価220円)

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昔の日本人はオーロラをどう見たか。そもそも日本でそんなにオーロラが見えたなんて。

 日本の古い史書や日記には、オーロラを目撃したものと思われる記録が多数残っているという。古くは日本書紀(西暦6201230日)にあり、江戸時代には本居宣長も赤く光る夜空を見たと記す。地球の磁場の関係で日本でも出現やすかった時代、昔の人びとは夜空を赤く染める不可思議な天体現象(日本のような低緯度地域のオーロラは赤いらしい)を見て何を思ったのか。そのとき天空では実際何が起こっていたのか。本書は古い記録からオーロラ目撃情報を収集する史学の専門家と、その情報から当時のオーロラを科学的に分析する宇宙空間物理学の専門家の共同で組み上げる日本のオーロラ史である。

1241317日に発生したオーロラを巡っては、陰陽師が幕府に駆け付け、日本書紀を含めた過去の事例等を踏まえた分析と進言を行い、これがオーロラなのか彗星の影響なのかという議論をしていたという。陰陽師の情報ストック機能、すごいぞ。

また185991日のオーロラの様子を記した弘前の商人、金木屋又三郎は赤い夜空を見て最初火事だと考え、警戒と情報収集に努める。火事ではないことが明らかになると、今度は天変地異の予兆ではないかと疑っている。現在、仮に本州でオーロラなんか見られたら日本中がラグビーワールドカップ並みに熱狂するはずだが、当時は不安をもたらす現象だったのである。

江戸時代のオーロラ目撃図には、赤い空に白い光が噴水のように噴き出すような絵がある。一見信じがたい景色なのだが、日本・中国の文献から当日のオーロラの形状を科学的に分析した結果、確かにその図のように見えたはずだ、という結論に至ったという。こういうことも学際的な研究により明らかになるのだ。

オーロラ発生のメカニズムを述べる冒頭部分がやや取っ付きにくいが、巻末に再説されており理解を助けられる。80頁余の小冊子だが吟味された文章に加えて図も豊富。オーロラと日本人というちょっと想定外のペアリングへの関心が深まる。天体観察にはあまり関心がない私だが、オーロラ(できれば赤いやつ)を見て古の日本人の気持ちに近づきたくなった。チャンスはあるだろうか。(鉄)

『オーロラの日本史 古典籍・古文書にみる記録』(岩橋清美・片岡龍峰著、20193月刊、平凡社83頁、1,000円+税)