負け犬の読書灯 〜本はいい。無秩序にご紹介〜

今日か明日、書店に行きたくなる書評

はだしの禅僧 関大徹と一対一で向かい合える充実感について

【書評】食えなんだら食うな [著]関大徹
(2019年6月刊、ごま書房新社、261頁、1,800円+税)

食えなんだら食うな

食えなんだら食うな

まず書名に威力があった。わたくし事だが、未経験の部署に異動して2か月、成果が出ず萎縮し休日の書店内を徘徊中、本書に出合った。著者の関大徹師は曹洞宗の僧侶、「天衣無縫のはだしの禅僧」とある。その書名の迫力で、座禅の警策で打つように一喝してほしかった。

 本書を読むと、あたかも著者と差し向いで対話をしている感覚になる。著者が語る、私がこういうことですかと返す、著者が応ずる、という具合だ。本書は禅の思考方法を私にも分かりやすく説き、喝を入れ、励ましてまでいただいた。今後、何度も読み返すだろう。

 著者は明治36年に生まれ15歳で出家、本書執筆時(昭和53年)は75歳。筆致ははつらつ、かつ論理的である。厳しい修行、人助け、そして今風に言えば社会貢献を振り返るが、誇る様子はない。むしろ修行も献身も自分のため、人に目立たぬようにするものだ、という。

 著者のさまざまな体験が紹介される。旧制中学在学中、街で自活することになったとき、飢餓の恐怖の中で「食えなんだら食うな」(死んで本望)という思想から「食えなくても食える」という発想に飛躍できた話。50代でがんの宣告を受け「病いなんて死ねば治る」と豪語していたが手術成功と聞いて喜んだ自分を恥じ、更に自分の知らないところで予後の経過を気にかけていた主治医のことを知り反省と感謝をした話、等々。

私のような凡人には、真似のできないことばかりだ。しかし、著者のような人でも悩んだり、反省したり、自分を恥ずかしく思ったりしながら生きているということに、励まされるのである。最後に著者はこう言っている。

「わかっているのは、生きている間に、再び生まれ変わってきたとき何を為すか、という課題をしっかり固めておかなければならない、ということであろう。
 その覚悟ができ、業と因果の道理をわきまえることができたら、これまで生きてきた短い人生の、この上もない尊さがわかってくるであろう。表面にあらわれた業績だけでなく、生涯をかけて積み重ねてきたものの重さがわかるであろう。」(251頁)

これ以上野暮な解説は不要だろう。つまりは名著である。