負け犬の読書灯 〜本はいい。無秩序にご紹介〜

今日か明日、書店に行きたくなる書評

泥沼と気球、あるいは大切な人との別れ【泥沼と気球1】

山の中に汚く臭い泥沼がある。俺はその泥沼に首までつかる。何とか這い上がらなければ沈み、重い泥が肺に流入する。死ぬ。はあはあを息を切らして這い上がろうとする。木の根や枝にしがみつく。泥と汗で滑る。

 

彼方から、気球がこちらの方向に向かってくる。バルーンは赤と白のストライプ。気球には2人を含む数人が乗っているようだが、姿は見えない。気球からこちらの姿も見えない。気球から泥沼は単なる模様に、俺の姿は蟻の如く映るはずだが、そもそも誰もそんなものを見下ろしはしない。気球の乗客の眼前には素敵な風景が広がる。薄汚い沼や蟻など視野に入れる必要はない。存在すら知らないのだ。

 

俺は死の恐怖と体力の消耗におののき、沼から這い上がろうとする。気球の姿が目に入るが、気にする余裕はない。泥が重い。やがて胸が泥から出る。腕に力をこめる。何とか這い上がる。

 

沼の傍にあおむけになり、空を眺める。秋晴れの晴天に雲はない。気球が頭上の上空を横切る。ゆったりと高度を上げながら気球は進んでいく。泥まみれの身体からドブの臭い。立ち上がり、ゆっくりと歩く。近くに清らな川が流れている。身を沈め、衣服と身体の泥を洗い流す。誰もいない。鳥の高い鳴き声が遠く聞こえる。静かな世界。水の音。

 

川から上がる。ほとりの岩に腰をおろし、キャスターに火をつける。ゆっくり吸って、ゆっくり吐く。バニラの甘い香りが広がる。気球はもう遠く、はるか遠く、点に見える。ストライプの色さえ夕日に溶けて判別できない。夕暮れの空に気球は吸い込まれる。2本目のキャスターを吸いながら、遠い気球を眺める。(鉄)